金魚水死体

最近は聖書読むのがゆっくりになって映画を観たり小説を書いたりしています

ネピリム=人間?

前回の続き。

6:1人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 6:2神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 6:3そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。6:4そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

以下、この章に関する私の疑問とネットの回答。

疑問①ネピリムって何?
・ネピリム=神の子と人の娘の間の子供
・ネピリム=一般的には巨人とされる

ギリシャ神話におけるデミゴッド(半神)みたいなものかしら?
ギリシャ神話における、というか私のデミゴッドに関する知識は「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」と「タイタンの戦い」に基づくものでしかないですが。
どちらもギリシャ神話の神と人との間のハーフであった英雄ペルセウスを主人公にした映画。どちらでも神の姿は人間よりずっと大きく、巨大な存在として描かれていました。
ギリシャ神話では、オリンポス以前のタイタンの神々のことを指して、巨大ということもあります。
ただし、ここにはネピリムが巨大な体を有しているとは書かれていません。
ネピリム=巨人、というのは後についた説明だとして、一旦無視していいかもしれない。

疑問②神の子って誰?
A神の子=天使(グレゴリ)
B神の子=人間



……さて、何食わぬ顔をして初めて見ましたが、最後の更新から四カ月ほど空いていますね。
その間聖書を読んでいないかったし礼拝にも行っていません。海外ドラマみたりライトノベル読んだり書いたりしてました。
ダメダメですね。いや、心身的には聖書を読むか礼拝に行くしかない!ってときより回復したんですが。
旧約聖書の読解は知的好奇心を満たすために続けていきたいと思っています。以前より密度と頻度が下がるかもしれませんが……。
ともかく、ここまでは下書きに保存されていた分でした。
しまった!自分で何の話かまったくわからない!
ええと、頑張って推測して続けます……。


おっとここに
・ノアは950歳
・寿命を制限されたのはネピリムでは?
というメモがありますね。

9:29ノアの年は合わせて九百五十歳であった。そして彼は死んだ。

と9章に記述のある通り、ノアは950歳。しかし、主が人の命を制限したのはノアの時代より前……。矛盾があります。

お、この下書きのタイトル「ネピリム=人間」になってるぞ?
えっと、神の子の正体は置いておいて、それと人の娘の間に生まれたネピリム。
この正体はなんなんだという話ですね。
私が立てた仮説は、ノアのように聖書に出てくる者たち、聖書の「英雄」と呼ばれるような人たち、つまり、人間ではあるんですが、百二十年に寿命が制限される前の、アダムとイブの系譜の上の方にいる人たち。

「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」

この発言が、ネピリムと人間の境目か……。とすると、ノアたちの世代にはその肉に主の霊が宿っていたが、私たちの世代となると、もうただの肉ってことですかね?

「肉」といえば宝石の国の世界観では人間が肉・骨・魂に別れた内、骨が宝石の国でありましたね。絡めて考えるとちょっと面白いかも。
市川春子さんの漫画って『創造主』の存在を背景に感じるものが多いですから、聖書理解があるとより深く楽しめる、かも。
がんばって読破したい〜!


いや、どうも今回はグダグダですみませんでした。次回も下書きの続きなので長い正座のあと立ち上がった人のようにゆらゆらしていると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

カインの妻はだれ?

長くなったので分けましたが前回の続きです。

創世記。
3章でエデンの園ができて、4章で楽園追放です。

3:2女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 3:3ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 3:4へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 3:5それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

有名な話ですが、「林檎」とは聖書には明記されていないんですね。
ここで出てくる果実の種類が林檎と広まった理由は、wikiさんに説明がありました。もちろんどこまで信じていいかわからないけれど。
禁断の果実 - Wikipedia

スペルの問題らしい。

そして、「知恵の実」ともなかった。
ただ単に「知恵の実」ではなく、「善悪を知るようになる実」。これはだいぶ、これでに持っていたイメージを壊されました。
「知恵を持つことが悪いこと」はよくわからないけど、「善悪を自分で判断するようになるのが危険」は頷けます(この感想自体が良し悪しを己で判断してる皮肉)。
「私が正しく、あいつが悪い」という考えから様々な争いや倫理の崩壊が起こるからでしょう。
「あいつは正しくない」「悪い」「だからあいつを苦しめるのは善いこと」みたいに……。
善悪の概念、意識が生まれるまでは、自然的淘汰で傷ついたり死んでいくだけだったのが、自由意志による種族内での闘争や殺し合いが生まれてしまった。人間の死因や傷つく原因の一部が、神の手を離れ人間の元に。
そうして早速人類最初の殺人、カインによるアベルの殺害です。
これが第4章。動機はおそらく嫉妬。
自分の供物より、アベルの供物の方が神に喜ばれた=アベルの方が自分より優れていた から。
何がよくてなにが悪い、なにが優れていてなにが劣っているなんて判断する頭がなければ起こらなかった殺人です。
兄弟の母、エヴァが齧った禁断の果実の伏線がここで回収されている。

あらすじを書くのが目的ではないですから、カインとアベルの物語の顛末は割愛して、とにかくアベルは死んでしまったので、アダムとエヴァから始まった人類の家系図は息子カインに引き継がれていきます。

4:17カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。 4:18エノクにはイラデが生れた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。 4:19レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった

こんな感じの家系図の説明、出てきたら読み飛ばす癖がついちゃいました。定期的にきます。5章なんか丸ごとこれです。
しかし今回目が止まったのは、タイトルにもある疑問が浮かんだからです。
「カインの妻はだれ?」
初めの男女、アダムとエヴァの子は、カインとアベル。どちらも男児アベルは死亡。残ったのはカイン一人。
カインの妻となった女の子はどこから???
これは結構誰もが躓く疑問みたいで、ネットにも回答がゴロゴロ転がってました
カインの妻はどこから来たか | キリストの栄光教会


カインの妻は誰ですか?カインの妹だったのですか?

上記のリンク先に出ている他に、カインの子はカインとエヴァの間の子供である(エヴァはすべての母である)という説もあるみたいですが、わざわざ「カインの妻」とあるのですから、エヴァとは別人物と見る方が自然でしょうね。

何もアダムとエヴァの子供がカインとアベルの二人だけだったとは書いちゃいない。妹がいたのさ。このころは近親相姦はまだオッケーだった。
あるいは直接妹じゃなくても、他の兄弟の娘とか、孫とか……アダムの寿命は930歳だった(※後述)から、カインが生きてる間に既に家系図は脈々と広がっていて、「その妻を知った」ってくらいに遠い親戚と年の差婚をすることも可能……ということらしいです。

ちなみに、旧約聖書には名前が出てこないカインの妻ですが、エチオピア正教会聖典ヨベル書」には名前が出てくるそう。その名も「アワン」。
アワン - Wikipedia

ただ、ヨベル書が書かれたのは紀元前2年で、旧約聖書の内の創世記を含むモーセ五書の成立よりずっと後(モーセ五書モーセが書いたとされていて、モーセが生きていたとされるのは紀元前13世紀か16世紀)なので、ヨベル書を書いた者が、創世記を読んで、カインの妻=妹 と解釈したというだけのこと、くらいに考えておいた方が良さそう。

※アダムの寿命は930歳
これは本文にそう記述があります。五章にアダムの子孫たちの没年齢もたくさん記してあって、皆700歳とか900歳とかそれくらいまで生きている。

人の寿命はかつて数百年だった? | Bible Learning
これは知らなかった。へー!

(しかし狭い目でみた現代、最高寿命は確か伸びてっているわけで、そうしたらこれはまた、神の領域に近づこうとしているということなのかしら?
二度目のバベルが起こる?)


その後、神によって120年に定められた……これは6章の初めの記述のことを指しているのでしょうが、ここでまた少し疑問が。

これも追い始めたら奥が深かった。次回!

「光あれ」すると既にそこに水があった

思うところがあって日曜は礼拝に行くことにしました。しかし、しばらくはまだ行けそうにないので、ひとまずは聖書を読んでいます。セオリー通り、なのかはわかりませんが古いものから新しいものへと辿っていこうと、まずは旧約聖書から。

 

家系図は把握しようとしちゃいけません。昔、読み始めたときはここで挫折しました。小学生くらい、家族と旅行先のホテルの部屋で、あんまりに暇だったときの話ですけど……アダムとエヴァの子がカイン。カインの弟がアベル。カインの子が……と全て図に書いて整理して読もうとしていました。それですっかり挫折して、それっきりです。

カインとアベルの兄弟の話は、スーパーナチュラルで大筋を掴む機会がありましたけどね。

 

口語訳聖書(新約および旧約 索引)

聖書は、ここで読んでます。今、創世記。創世記が終わると出エジプト記……モーセが出てくる話ですね。大体皆、ここで挫折するらしい。まだ、道のりは長い……。

ともあれ、まずは創世記です。今日は11章まで読み終わりました。バベルの塔が崩れた辺りです。

 

1章は、天地創造のお話。神様が七日間で世界を作ったってやつですね。

1日目は光がつくられて、光と闇が分けられて、昼と夜ができた。

面白かったのは、2日目。

 

1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

1:9神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 1:10神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。

 

おおぞら=天は水と水を分けるために生まれた、つまり、天より先に水があったってことになる。天ができたことによって分けられた水の下の方に陸がつくられ、これが「地」……つまり「水」→「天」→「地」の順番で作れたというということに。

でも、水がいつどうやってつくられたのかについては書かれていない。

天の前に作られたのは光だけ。光ができたことによって闇との区別が生まれ、昼と夜ができた。

光ができた瞬間にぽっと世界ができたのかと思っていたけれど、水、水はどこから来たの?光が照らしたとき既に世界はあって、そこには水があったのかしら?つまり、神様が世界を作る前に水の世界があって、神様はそれを光で照らし、形を変えただけということ?

 

1:1はじめに神は天と地とを創造された。 1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

 

この1節で書かれたことが、後の6〜10節(2日目)で詳しく書かれているのだと思っていたのですが、2節は一体いつのタイミングの話をしてるのだろう?2日目?それとも「光あれ」の前?

 

2日目なら、既に陸ができているのだがら「地は形なく」はおかしい。

しかし「光あれ」の前ならば、光がなければ闇もないのだから、闇についての記述があるのはおかしい。

うーーーーん。

「形をもたない地」は、ある意味存在していないと同等。

光がない時点のやみはやみと区別されることがなく、これも存在しないのと同等。

と、片付けることができるとして。

問題は水、水だよなあ……。

 

勿論先にこの問題に気づいて考えている人はいた。

天地創造

うーーん釈然としない。

 

神様が世界を作る前に水は既にあったのか……でもそうしたら、旧約聖書における神様は世界を照らし、天地を作り上げただけで、世界を創造しただけで、厳密には「世界の創造主」とは言えないのでは?

 

少し考え方を変えてみよう。

地も、やみも、水も、はじめからあった。「光あれ」により、地は輪郭を得て(水が分けられてから陸が作られたなら、ちょっと時系列が矛盾?するけど)、やみは光と区別され、水も認識されるようになった……。

認識?

そうか、聖書は人の手によって書かれているのだから、この第1章が人間の唯心的な視点で書かれていると考えればいいのか!

神様がどのように世界を作ったかではなく、人間がそれをどのような順番で認識したかで書かれているんだ!

でも、神様が人間を作ったのは5日目のことでは?何故、それ以前の天や地や植物の誕生を認識できる?

それは、5日目は、人間が創造された日、ではなく、「人間が自己の存在を認識した日」だから!

天や、地や、植物や他の動物を認識する→それを観察している自己を認識する

この順番!

 

 唯心論的見方で創世記を読む……既にどこかの哲学書に載っていそう。載っていたら教えてください。

 

とにもかくにもすっきりした……。

 

ああでも、もう一つ疑問なことが。

神様はおおぞらの下の水に陸地を作ったので、おおぞらの下の水=海ということらしいのだけど、ではおおぞらの上の水ってなんなんだろう?

これは調べたら、空中の水蒸気の層、雲、という説明がたくさん出てきた。

空から雨が降ってくることを説明してるのね、なるほど。

この後のノアの箱舟の大洪水の伏線にもなるわけだ。

 

少し話を戻して、天地創造の唯心論的解釈について……。

 

1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 

そういう視点で考えたら、旧約聖書に書かれている「神」とは、「人」とは何なのだろう、ということに思い当たった。

そして、天地創造のみならず、旧約聖書自体が、人類の「自我のめざめ」の物語ではないのだろうか、と読み終わりもしない内から仮説を立てた。

神の思うがままに世界が動かされていた、とは、人が自意識や自我を持つ以前、自分がどうしようという意志を持たないのに生命活動は続いていたことへの説明なのではないだろうか。

自己と他者、周囲の環境との区別もつかず、光がないので輪郭を持たない地のように、人間は自己の中に自分自身を持たなかった。そこには「神」のみがあった。

「神」は常に人とともにある。

……とか。

 

 

私は何のために礼拝に行くのだろう?

いや、これは別に思うところがあるのだ。