「光あれ」すると既にそこに水があった
思うところがあって日曜は礼拝に行くことにしました。しかし、しばらくはまだ行けそうにないので、ひとまずは聖書を読んでいます。セオリー通り、なのかはわかりませんが古いものから新しいものへと辿っていこうと、まずは旧約聖書から。
家系図は把握しようとしちゃいけません。昔、読み始めたときはここで挫折しました。小学生くらい、家族と旅行先のホテルの部屋で、あんまりに暇だったときの話ですけど……アダムとエヴァの子がカイン。カインの弟がアベル。カインの子が……と全て図に書いて整理して読もうとしていました。それですっかり挫折して、それっきりです。
カインとアベルの兄弟の話は、スーパーナチュラルで大筋を掴む機会がありましたけどね。
聖書は、ここで読んでます。今、創世記。創世記が終わると出エジプト記……モーセが出てくる話ですね。大体皆、ここで挫折するらしい。まだ、道のりは長い……。
ともあれ、まずは創世記です。今日は11章まで読み終わりました。バベルの塔が崩れた辺りです。
1章は、天地創造のお話。神様が七日間で世界を作ったってやつですね。
1日目は光がつくられて、光と闇が分けられて、昼と夜ができた。
面白かったのは、2日目。
1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
1:9神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 1:10神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
おおぞら=天は水と水を分けるために生まれた、つまり、天より先に水があったってことになる。天ができたことによって分けられた水の下の方に陸がつくられ、これが「地」……つまり「水」→「天」→「地」の順番で作れたというということに。
でも、水がいつどうやってつくられたのかについては書かれていない。
天の前に作られたのは光だけ。光ができたことによって闇との区別が生まれ、昼と夜ができた。
光ができた瞬間にぽっと世界ができたのかと思っていたけれど、水、水はどこから来たの?光が照らしたとき既に世界はあって、そこには水があったのかしら?つまり、神様が世界を作る前に水の世界があって、神様はそれを光で照らし、形を変えただけということ?
1:1はじめに神は天と地とを創造された。 1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
この1節で書かれたことが、後の6〜10節(2日目)で詳しく書かれているのだと思っていたのですが、2節は一体いつのタイミングの話をしてるのだろう?2日目?それとも「光あれ」の前?
2日目なら、既に陸ができているのだがら「地は形なく」はおかしい。
しかし「光あれ」の前ならば、光がなければ闇もないのだから、闇についての記述があるのはおかしい。
うーーーーん。
「形をもたない地」は、ある意味存在していないと同等。
光がない時点のやみはやみと区別されることがなく、これも存在しないのと同等。
と、片付けることができるとして。
問題は水、水だよなあ……。
勿論先にこの問題に気づいて考えている人はいた。
うーーん釈然としない。
神様が世界を作る前に水は既にあったのか……でもそうしたら、旧約聖書における神様は世界を照らし、天地を作り上げただけで、世界を創造しただけで、厳密には「世界の創造主」とは言えないのでは?
少し考え方を変えてみよう。
地も、やみも、水も、はじめからあった。「光あれ」により、地は輪郭を得て(水が分けられてから陸が作られたなら、ちょっと時系列が矛盾?するけど)、やみは光と区別され、水も認識されるようになった……。
認識?
そうか、聖書は人の手によって書かれているのだから、この第1章が人間の唯心的な視点で書かれていると考えればいいのか!
神様がどのように世界を作ったかではなく、人間がそれをどのような順番で認識したかで書かれているんだ!
でも、神様が人間を作ったのは5日目のことでは?何故、それ以前の天や地や植物の誕生を認識できる?
それは、5日目は、人間が創造された日、ではなく、「人間が自己の存在を認識した日」だから!
天や、地や、植物や他の動物を認識する→それを観察している自己を認識する
この順番!
唯心論的見方で創世記を読む……既にどこかの哲学書に載っていそう。載っていたら教えてください。
とにもかくにもすっきりした……。
ああでも、もう一つ疑問なことが。
神様はおおぞらの下の水に陸地を作ったので、おおぞらの下の水=海ということらしいのだけど、ではおおぞらの上の水ってなんなんだろう?
これは調べたら、空中の水蒸気の層、雲、という説明がたくさん出てきた。
空から雨が降ってくることを説明してるのね、なるほど。
この後のノアの箱舟の大洪水の伏線にもなるわけだ。
少し話を戻して、天地創造の唯心論的解釈について……。
1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
そういう視点で考えたら、旧約聖書に書かれている「神」とは、「人」とは何なのだろう、ということに思い当たった。
そして、天地創造のみならず、旧約聖書自体が、人類の「自我のめざめ」の物語ではないのだろうか、と読み終わりもしない内から仮説を立てた。
神の思うがままに世界が動かされていた、とは、人が自意識や自我を持つ以前、自分がどうしようという意志を持たないのに生命活動は続いていたことへの説明なのではないだろうか。
自己と他者、周囲の環境との区別もつかず、光がないので輪郭を持たない地のように、人間は自己の中に自分自身を持たなかった。そこには「神」のみがあった。
「神」は常に人とともにある。
……とか。
私は何のために礼拝に行くのだろう?
いや、これは別に思うところがあるのだ。